今年の目標で「自分なんか」って思うのをやめようとメモしたけれど、やはり「自分なんか」という考えが自分にこびりついている。
ただ去年より成長したのは「自分なんか」と思ったときに、「はっ!自分なんかって思った!」と気がつくようになったこと。
でもそれゆえに「はぁ……また自分なんかと思ってしまった」と落ち込む。結構落ち込む。
保険をかけて「自分なんか」と思っているわけではない。
当然、原稿には熱心に向き合っていて、真面目に仕事に取り組んでいるし、責任を持ちたくなくて「自分なんか」と言っているわけではない。
おそらく心の底から「自分なんか」と思っているようで、なかなか変われなくてしんどい。
とはいえ、特に仕事に関しては「自分なんか」と思うのは本当に良くないと思っている。
フリーランスとしてのキャリアも徐々に積みあがっていき、最近は「雪代さんに取材していただけて嬉しい」というお言葉をいただくことも出てきた(嬉しい…泣)。
「書く」ことは気を付けないと暴力にもなるということは常に頭の片隅に置いているし、取材に関しては特に自分が構造的に権力を持っている面があることに注意しなくてはならないと思っている。
心のどこかに「自分なんか」がいると、その構造的権力を透明化してしまうことがあるのではないか。無意識であっても自信のなさが無責任と繋がってしまうことがある気がして怖い。
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「自分なんか」がこびりついている根っこには、きょうだい児×機能不全家庭だったことが関係していると自分で分析している。
弟優先で日常的に諦めなくてはいけなかったこと、弟がいたから親は私にゲームで遊ばせていたのに「ゲームばかりやってるから考える力がない」と言われ続けたこと、家庭内においても真面目である性質が冷笑の対象であったことなど。
私はセクハラ被害がきっかけでカウンセリングに行き始めて、通ううちに機能不全家庭での辛さの蓋を開け始めたところで、コロナ禍になってしまい、今はストップしている(といってももう2年近く経つ)。
この辺の問題は自分だけで言語化するのが追いついてないから、またカウンセリングに行きたい。
私は「すごくない人間」→すごいの定義とは?
「私なんか」と同時に「私はすごくない人間」と思うことも癖である。
だけど最近ふと思った。「すごい」の定義とは?
ざっくり言うと、自分とは対照的な、自分が苦手とすることをサクサクできてしまう人のことを「すごい」と思っていた。
・人前で堂々と話す
・人に注目されても堂々とできる
発信活動をしていながら致命的かもしれないのだけれど、私は良い意味でも注目されることが実はすごく恥ずかしい。
wezzyで書いていた頃は、記事がバズるとドバっとフォロワーさんが増えていたのだけれど、正直嬉しいより照れとか注目されることに慣れないドキドキの方が大きく(ごめんなさい)。
それでも、細かいテーマを申し上げるならば「性暴力によるキャリア断絶」「きょうだい児の大人になってからの生きづらさ」「きょうだい児の親亡き後問題」など解消したいこと、世に伝えていきたいことはあるので、発信活動は頑張ろうと思っているのだけれど、発信活動と人に注目されることは切り離せないのに、良い意味でも注目されるとドキドキしてしまう。
この恥ずかしい気持ちは「私なんか」がなくなったら解消されるのだろうか。
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逆に私は地味に真面目に取り組むのが得意である。「真面目にコツコツ」が活きる仕事とは相性が良いと気づいた。
ライターといっても色々なジャンルがあるので、「真面目にコツコツ」と相性の良いジャンルで書くと自分を活かせるとやっと気づいた。
「真面目にコツコツ」取り組むことが苦手な人もいるので、もしかしたらそういう人から見たら私はすごく見えるのかもしれない。
そして、他の真面目にコツコツやっている人を見て「すごい」と思うのに、なぜ自分に関してはここまで「すごくない人間」と思ってしまうのか。
やはり「私なんか」と向き合っていくしかないのか。
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締まりがスッキリしないけれど……今日はここでおしまい。
自分のサイトに載せる文章は
①事実に誤りがないか
②倫理的に問題ないか
③極端に文章が変ではないか
といった最低限の基準は満たしつつ、クライアントワーク並に細かくチェックはしない方針にしようかと。
元々神経質なうえに、クライアントワーク並に細かくチェックすると投稿までにものすごく時間がかかるため。
媒体に掲載されている文章よりは緩いと感じるかもしれませんが、何卒よろしくお願いいたします。